スラエル・モニターツアー8日間の旅2008/6/11〜6/18 
 
テルアビブ・ヤッフォ・マサダ・死海
1日目(6/12)
 

エルサレム 新・旧市街・ビアドロローサ2〜4日目(6/13〜15)はこちらをご覧下さい
メギド・ナザレ・カペナウム・ティベリア・アッコ・カエサリア4〜7日目(6/15〜18)はこちらを

イスラエルは、国土の面積は日本の18分の1、人口は700万人強で、一人当たり面積は日本とほぼ同じであるが国土の60%は荒野(ネゲブ砂漠、岩山)である。日本の四国程度の広さで、九州程度の緯度であるが地中海に面している事や死海は海抜マイナス400m、ガリラヤ湖はマイナス200m、この間をヨルダン川が流れている地形から非常に暖かい。民族構成はユダヤ人が約80%、アラブ人が約20%、キリスト教徒16万人、ドルーズ教徒10万人。ユダヤ人の内、全ての戒律(モーゼのトーラー旧約聖書の613の律法)を守り、政府の認定を受けて手当ても貰っている人達が20%、それぞれの出身地(ロシアやポーランドその他の世界中から帰還した)の習慣などを踏襲した戒律を守っている人達が60%、全く戒律に関心の無い人達が20%だそうである。主要な都市はエルサレム、テルアビブ、ハイファ、ベエル・シェバ。通貨単位はシェケル(1NIS=¥30)。約4000年前にアブラハムが、初めて土地を購入した時に使ったとされるお金の単位を使っている。まさに神話の国である。アブラハムのおめかけさんの子イシュマエルの子孫がアラブ人、正妻サラの息子イサク、ヤコブの子孫がユダヤ人という事になっている。イスラエルはまさに世界3大宗教の聖地(Holy Place)であり、旧約聖書や新約聖書を理解していると、実に分かりやすい観光となり、興味津々。言語はヘブライ語を国語として復活させている。観光の時期としては、雨が全く無くて良かったが、既に真夏であり、非常に暑かった。帽子とサングラスが必須。花はブーゲンビレア、夾竹桃が真っ盛り。野原の草花は既に枯れてしまっている。観光の敵期は3月頃だと思う。自家用車は日本車が結構目に付き、殊にマツダ車の多いのは意外だった。
        イスラエルの歴史については次のページに概略を示す。
2008/6/12  テルアビブ(春の丘の意) ヤッフォ(テルアビブの2km程南)に入植していたユダヤ人グループが砂丘に1909年ヨーロッパ式の都市を作り始めた。現在ではイスラエルの首都となり、人口40万人、周辺都市を含めると150万人のメガロポリスであり、イスラエルで最も新しい近代都市である。ベングリオン国際空港も近くアクセスに便利で、成田空港から4時間の香港で乗り継いで、香港から約12時間の飛行である。 

上空から見た香港

2008/6/11
香港乗り継ぎ
時撮影

テルアビブの海岸
ホテルエリア

テルアビブ
ヤッフォから見た

イスラエルの通貨シェケル4000年前アブラハムが土地を購入したと同じ通貨単位
 2008/6/12  ヤッフォ観光 ヤッフォの町が生まれたのはBC1800〜1600年頃で、砦、港町としての長い歴史の始まりで有り、イエスの弟子ペテロが泊り異邦人伝道の始まりとなったという「皮なめしシモンの家」やギリシャ神話の「アンドロメダの岩」などが今も残っている。ナポレオン軍隊もここから上陸した。 

皮なめしシモンの家
ペテロが寄宿した。
建造物は200年前のもの

聖ペテロの教会

教会中央の祭壇

教会内左側面

ヨハネ、マリア、イエス

エジプト軍が築いたレンガ作りの大規模な要塞跡
右側はラムセス2世記念門(BC1300年頃の建造物)


左はナポレオン像(1779年侵略)聖ペテロの教会前
ヤッフォは3300年前にエジプトに侵略されて以来、常にイスラエルを横切るあらゆる軍隊の侵略の的となり、死と破壊の歴史を刻んだ。

2008/6/12訪問  
クムラン(Qumran)
現在は廃墟で死海写本の
歴史的発見場所
BC200年頃作成の写本
死海のすぐ近くに位置し、1947年に偶然羊飼いの少年が岩山の穴の中に隠された旧約聖書の写本を発見して以降、600にのぼる旧約聖書の写本が羊の皮に書かれ、壷に収められて、ほぼ完全な形で発見された。ユダヤ教の一派であるエッセネ派と呼ばれる人達が作った文書である。イエスキリストも、その従兄弟洗者ヨハネもここを通過したと考えられている。
下のエリコ(jyericho)はモーゼの後継者ヨシュアが七つのラッパを吹き鳴らして城壁を破壊して入場し、神に約束された地カナン(現在のパレスチナ)として、ヘブライ人(ユダヤ人)が、原住民を人間も動物も全て滅ぼして自分達の国を作った。一神教は恐ろしい。    (旧約聖書ヨシュア記第6章

ユダの荒野 あこがれのエルサレムを右上に見て、一路クムランへ下る

See Revel 海抜ゼロm標識
クムラン、死海(マイナス400m)
への途中に有り、カメラ休憩

エリコ(jyericho)の町遠望
海抜マイナス250m
BC7800年から人類が住み始めた
イスラエル最古の町

ナツメヤシの林 乾燥地なので
木の根元の水道のパイプで水を供給
旧約聖書で蜜と呼ばれる甘い果実

The Scribes Room at Qumran
(BC200年死海写本を作った部屋)
遠くに死海が見える

クムランの岩山  羊の皮に書いた旧約聖書の写本を壷に入れて複数の穴に隠した

死海写本が1947年に最初に発見された岩山と穴。
羊飼いの少年が偶然発見

クムランに咲くきれいな花
2200年前を憶えているだろうか?

2008/6/12 マサダの砦 マサダの城砦の悲劇で有名。ヘロデ大王の時代に大改造が行われた。AD66年に始まったユダヤ人の大反乱後、AD70年にエルサレムが陥落し、民族の放浪が始まった。最後迄戦った熱心党と言われるユダヤ教徒が立てこもった砦であり、967名が精強の古代ローマ軍3万人を相手に3年間立てこもった後、軍事道路を建設され、AD73年攻城機により城門を破壊されて陥落し、その前夜に城内で男女子供も相互に・・・・・・全員玉砕した。

マサダの砦
バスの車窓から

砦頂上部から
死海方面を望む

頂上部から眺める
中腹の丸い宮殿跡

砦の宮殿部分の模型

頂上から麓のケーブルカー駅の眺望

頂上からの
壮大な岩山群の眺望

ローマ軍からの投石器の弾丸

古代ローマ軍はガリヤ(フランス)を攻める時カエサルも使用

ローマ軍軍事攻略道路
埋め立ての大規模な土木工事後 攻城機で城壁破壊
AD73年

ローマ軍(3万人)の宿営地跡の頂上からの眺め

マサダの砦最上部の眺め(これでおよそ20%程度)
2008/6/12 死海浮遊体験海抜マイナス400m、塩分濃度は飽和濃度を超える35%だと言われており、底は実にきれいな真っ白い塩である。従って一切の動植物は生育出来無い。北部では深さ400m、南部では10mと言われており、大きさは琵琶湖の4倍もあるそうだ。 今回は南北二つに分かれた死海の南側イスラエルのエンボケックのホテルに宿泊してヨルダン側から昇る朝日を眺めながらの浮遊体験。半年前は北側の死海中央部ヨルダン側でイスラエル側に沈む夕日を眺めながらの浮遊体験だった。
死海の眺め
左向こう側はヨルダン領

死海の海岸線
塩の連続

浮遊2回目の体験
実に暖かい死海

初体験は半年前jyordanで

ヤッフォ在住のユダヤ人
親切にも私の為にきれいな塩をペットボトルに一杯に

同じく親切なご夫妻
Broken Englishでしばし歓談
Mailで写真送信

ユダヤ人のおじいさんと双子の子供(左は日本人同行者)

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