岡山県 

井原市 2011/3/14訪問 北条早雲の生まれ故郷であり、モンテンルパ日本人捕虜収容所加賀尾教誨師の宝蔵院が有る。

早雲の里荏原駅前の北条早雲の石像 20011/3/14
   井原市は北条早雲の生まれ育った地であり、小田原城のある神奈川県小田原市と交流がある。
       北条早雲は駿河国興国城主、韮山城主、小田原城主となり、名君と慕われた戦国大名の魁。本名伊勢新九郎長氏1456-1519年
       小田原城は第3代城主 氏康のとき最大となり関東八州を統治した。
北条5代の墓は箱根の早雲寺にある。


早雲の里荏原駅前の眺望

駅前の早雲の石像

友人と記念写真

北条早雲の出自
真言宗平醫山 宝蔵院  岡山県井原市
   2011/3/14訪問(加賀尾教誨師1901-1977、77才没、33回忌が一昨年、息子さんも10年前に亡くなり、息子さんの奥さんに面会した)
 有名な 「あゝモンテンルパの夜は更けて」渡辺はま子が歌ったこの曲の作詞作曲を提案した加賀尾秀忍教誨師が住職を務められたお寺
 
極東国際軍事裁判(通称東京裁判)は昭和23年(1948年)11月には終了していたが、昭和24年(1949年)フィリピンのニュービリビット日本人戦犯捕虜収容所(通称モンテンルパ捕虜収容所)には未だ74名の死刑囚を含む有期29名、無期30名、合計133人の日本人戦犯が収容されており、精神的にも生活も悲惨な日々を過ごしていた。
 
ここに前任者が病気の為、宝蔵院住職の加賀尾秀忍師に6ヶ月間の期限でモンテンルパに渡航しての教誨師が委嘱された。加賀尾秀忍師は昭和24年11月〜昭和28年7月まで教誨師を務めた。しかし初めの委嘱期限内6ヶ月間は給与が国から支給されたが、それ以降個人の意思で残った加賀尾教誨師は収入の道を断たれ、死刑囚の残飯を食べ死刑囚の部屋で寝起きし、食事と衛生上の関係で何回か重病に陥った。昭和26年1月19日突如として14名の死刑が執行され、加賀尾教誨師は死刑執行に立会い、全員の最期の記録を残した。精神的に鬱屈している死刑囚を励まそうと、昭和27年6月加賀尾教誨師の提案で、「ああモンテンルパの夜は更けて」が作詞作曲された。死刑囚の代田銀太郎陸軍少尉長野県飯田市出身38才の作詞、同じく死刑囚の伊藤正康陸軍大尉愛知県知多市出身30才の作曲。昭和27年12月25日クリスマスに渡辺はま子がこの刑務所を慰問に訪れてこの歌を初め、日本の歌を熱唱。全員が涙涙涙の大合唱。最後は刑務所所長から許されて君が代斉唱。その後加賀尾教誨師の数々の助命嘆願が功を奏し、昭和28年7月戦犯の有期,無期囚は釈放、60名の死刑囚は巣鴨プリズンに移された。さらに幸運にもフィリピンキリノ大統領の好意有る命令で昭和28年12月30日全員釈放となった。
   参考資料:天に問う手紙 小林弘忠著 毎日新聞社  :モンテンルパに祈る 加賀尾秀忍教誨師著 非売品

真言宗平醫山宝蔵院入り口

加賀尾秀忍教誨師胸像

宝蔵院本堂

真言宗平醫山宝蔵院縁起

戦没者英霊供養位牌

モンテンルパ収容戦犯精霊位牌
昭和28年釈放後の英霊も合祀

あゝモンテンルパの夜は更けて
作曲者伊藤正康陸軍大尉が曲を発表する際の演奏を聞く日本人戦犯

キリノ大統領に面会を許されマラカニアン宮殿で握手をする加賀尾教誨師と金山日本大使
昭和28年5月16日

上の写真は13階段のある当時のモンテンルパの絞首刑死刑台
下はモンテンルパ刑務所で写した日本人戦犯で伊藤正康大尉や最後方に加賀尾教誨師

宝蔵院本堂天井の300字経
加賀尾教誨師直筆の般若心経
あゝモンテンルパの夜は更けて

1.モンテンルパの夜は更けて つのる思いにやるせない 遠い故郷偲びつつ涙に曇る月影に 優しい母の夢を見る
2.ツバメは又も来たけれど 恋しい我が子はいつ帰る 母の心は一筋に 南の空へ飛んでゆく さだめは悲しい呼子鳥
3.モンテンルパに朝が来りゃ 昇る心の太陽を 胸に抱いて今日もまた 強く生きよう倒れまい 日本の土を踏むまでは
加賀尾教誨師昭和28年5月16日
キリノ大統領に初めてマラカニヤン宮殿で面会を許された。
この時、渡辺はま子から加賀尾教誨師に贈られた
「あゝモンテンルパの夜は更けて」

のオルゴール入りのアルバムを大統領に差し上げたが、この際、助命嘆願をしなかったことが逆に、妻と二人の息子をこの戦いで失ったキリノ大統領の心の琴線に触れて全員釈放への布石となった。
吉備真備公園20011/3/14訪問 岡山県小田郡矢掛町東三成
 
吉備真備 695-775 81才没 日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。一回目は22歳日本人留学生として、2回目は58才遣唐使として入唐し無事に日本へ戻った。吉備真備は奈良の平城遷都300年祭でも復元された遣唐使船と共に展示されている。

吉備真備公園と銅像

吉備真備公園と銅像

吉備真備入唐絵巻の一部

記念写真
岡山後楽園 岡山城 岡山護国神社 2011/3/14訪問 
  岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政[いけだつなまさ]が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園
  また、江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができた。能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは、参勤交代で岡山を留守にする間は日を決めて庭を見せている。また、藩主のお客をもてなす場としても使われた。

岡山後楽園の庭園

岡山後楽園池の見事な錦鯉

岡山後楽園の庭園

岡山後楽園で水の流れを聞く

岡山城展望

岡山城正面

岡山城天守閣金のシャチホコ

岡山護国神社

鷲羽山(わしゅうざん)  2011/3/15


瀬戸大橋金門橋 鷲羽山頂上からの眺望
予島、そして高松方面を望む素晴らしい眺望

瀬戸大橋金門橋 鷲羽山

瀬戸大橋 鷲羽山麓の駐車場より
倉敷美観地区   2011/3/15
 江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しており、1979年(昭和54年)に県内2件目となる重要伝統的建造物保存地区に選定されている。

大原美術館本館入り口
古代ローマ風建築

今橋と大原氏の有隣壮

今橋と大原邸

大原氏が財を投じて建設した
今橋 の見事な欄干

倉敷美観地区 倉敷館

倉敷美観地区
江戸時代の街並み

倉敷美観地区
 トンネル
大原美術館は倉敷の実業家大原孫三郎(1880-1943)の財で収集した美術品を1930年に美術館として公開開館した。
絵画エルグレコの受胎告知は特に有名である。美術品は撮影不可で有り、掲載できない。
備中高松城跡   2011/3/15
 
天正10年(1582年)織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻めにかかった。5月8日軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲む、低湿地にあった「高松城水攻め」開始である。突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没した。6月2日本能寺の変が起こり密書で信長の死を知った秀吉軍は毛利軍に知られぬよう和議を成立させた。城兵の命と引き替えに6月4日宗治は切腹。秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返し秀吉による天下取りの幕開けとなった。 
  清水宗治辞世の句   浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

堀の 現在蓮池の外からの城跡

城主清水宗治 辞世の句碑

清水宗治首塚

高松城水攻めの図

吉備津神社 国宝 2011/3/15

 岡山県岡山市北区にある神社である。祭神 大吉備津彦命を主祭神とする。吉備津彦は第7代孝霊天皇の皇子で、別名を比古伊佐勢理比古命という。本殿及び拝殿(1棟)が国宝となっている。


吉備津神社入り口

国宝 壮大な本殿

神社の回遊式庭園

池の見事な松


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